LOGIN――リンゼン帝国 帝都 城門前広場――
普段は練兵場として使われている大きな広場も、十万の大軍が集まれば窮屈に感じます。
大軍の前方、一段高く設えられた演台に立つのは宰相アルベルト・ヨハン・ローゼンベルク。 これから敵地へと侵攻する兵士に向けて、総司令官として軍を率いる彼が全軍に激を飛ばします。「戦友諸君! この戦いはかつての帝国領土を取り戻すための正義の戦いである! 慈悲深き皇帝より多大な君恩を受けたことも忘れ、逆賊の徒に成り果てたカイゼル・ハワードとその一味に大いなる鉄槌を下すのだ! 敵はわずか三万の小勢! 我が十万の勇猛な将兵たちの前には蜘蛛の子のごとく蹴散らされることだろう! いざ進め! 不当に|簒奪《さんだつ》されし我が領土へ! 進軍速度第三種!」
進軍前の演説というのは本来、兵士たちの戦闘意欲を刺激し、士気を上げるために行う物。
背後でそれを見守るイストリアから見て、宰相の演説は三つの間違いを犯していました。一つ目は戦友諸君と呼びかけたこと。
戦友というのは長年の戦を共にして、将兵の信頼関係が成り立ってこそ意味のある呼び方です。新兵や初めて指揮する部隊に向かっては『戦士諸君』と呼びかけるのが慣例でした。それをいきなり馴れ馴れしく戦友などと呼ばれては、兵士たちも興醒めです。そして二つ目。
総司令官は兵士にとって命を落とすかもしれない戦場へと送り出すために、己の正義を信じ、敵へと立ち向かう勇気や敵愾心を煽るものです。煽るまでは良かったのですが、最初から敵を過小評価し、この戦いが簡単に終わると印象付けたのは悪手でした。そして最後は進軍速度。
進軍速度は三種に分かれており、一種は通常行軍で一日の踏破距離は二十キロ程度。二種は速行軍で三十キロ程度。そして三種というのは昼夜問わずの強行軍で、その距離は四十キロ以上とされています。それを武器や防具、当面の食料やテント類など二十キロ近くある重さの装備を抱えて進むのです。 帝国の首都から辺境である大陸西方への入り口までは四百キロ近く。通常行軍なら二十日ほどで到達できるところを、必ずしも急ぐ理由がないにもかかわらず最速で到達することを強要するのですから下策以外の何ものでもありません。この演説を聞いた兵士たちの心境が、敵を侮り、労苦を厭い、無茶な命令に反発心を抱くようになってしまっても仕方がないというもの。
イストリアは、あの即位の日以降そば近く控えるようになった青年将校ヴィルヘルム・フォン・ハッツフェルトへ向かって問い掛けました。
「ヴィルヘルム、どうして大臣は最強行軍をさせてまで急がせるの? 食料の補給も大変になると思うんだけど」
その質問には彼も驚きました。わずか十歳の少女皇帝が兵站の重要性を把握しているのですから。
それとは対照的に愚行を繰り返す大臣には憤りを覚えていました。「あれは単なる見栄でしょう。大臣にとって総指揮官は初めて。初陣を華々しく、迅速に片付けることによって自身の名声を高めたいという野心しかないと推察します。補給路も途中に中継基地を設置していない以上、伸びきってしまい困難なものになるでしょう」
吐き捨てるように言う彼の言葉に、イストリアは表情を曇らせます。
「それでは兵が飢えてしまうではないの。空腹では士気も維持できない。もっとゆっくり行軍することはできないの」
兵站の充足はそのまま兵士の士気に直結します。それを書物や誰かから習ったわけではなく、想像だけで見抜いてしまうこの皇帝の頭の良さに、ヴィルヘルムは頼もしいものを感じました。
しかし、賢帝の素質を見せるイストリアに対し、あくまで自身の名声と虚栄心にしか興味がない大臣には何を言っても聞く耳を持たないでしょう。愚将に率いられる軍隊ほど不幸なものはありません。「ゆく先々の街で現地調達をすればいいとでも思っているのでしょうね」
十万もの人間を食べさせていくというのは大事業です。そのために兵站というのは重要になるのですが、それを重視しない人にとってはただの補給にしか過ぎないのでしょう。
「そんな。それでは街の人々の食料がなくなってしまう。民を犠牲にして何が帝国軍なの」
彼女の言うとおりいくらお金を払って食料を調達すると言っても、十万の人間の胃袋を満たすほどの量を取られればそれは徴収と何ら変わりなく、行軍路に当たってしまった街の民にとっては迷惑以外の何者でもありません。
内政には卓越した腕を振るっていた大臣とは思えぬ失策です。 野心というのは時として、人の目を曇らせてしまうものなのでしょう。「この戦闘はおそらく負けます。だが戦闘の負けがそのまま全体的な戦争の負けを意味するわけではありません。皇帝陛下に置かれましては帝都を守るべく、さらなる兵の増強と練兵に力を注ぎ、万が一の事態に備えていただくのが肝要かと」
「あなたはそれを手伝ってはくれないの?」
「わたしはただの大隊長でしかありませんから。指揮権がありません」
「ならば次の選挙で法務官に立候補しなさい。わたしが支援するわ。会計検査官は経験済みでしょう?」
リンゼン帝国の官職は市民集会による選挙を経て選ばれるものであり、各官職に就任するためには条件があります。上位の官職に立候補するには軍事経験と下位の官職の実務経験が必要なのですが、ヴィルヘルムは既にその両方を満たしています。
その上で皇帝が後ろ盾につくとなれば当選は確実。 帝国では法務官と執政官の二つだけが、二個軍団以上の指揮権を与えられていました。「あなたはこれから、わたしの手足となって働くのよ」
イストリアの幼い顔からは想像が難しい、統治者としての確固たる意志の強さに、ヴィルヘルムは息を飲むのでした。
――リンゼン帝国 帝都 城門前広場―― 普段は練兵場として使われている大きな広場も、十万の大軍が集まれば窮屈に感じます。 大軍の前方、一段高く設えられた演台に立つのは宰相アルベルト・ヨハン・ローゼンベルク。 これから敵地へと侵攻する兵士に向けて、総司令官として軍を率いる彼が全軍に激を飛ばします。「戦友諸君! この戦いはかつての帝国領土を取り戻すための正義の戦いである! 慈悲深き皇帝より多大な君恩を受けたことも忘れ、逆賊の徒に成り果てたカイゼル・ハワードとその一味に大いなる鉄槌を下すのだ! 敵はわずか三万の小勢! 我が十万の勇猛な将兵たちの前には蜘蛛の子のごとく蹴散らされることだろう! いざ進め! 不当に|簒奪《さんだつ》されし我が領土へ! 進軍速度第三種!」 進軍前の演説というのは本来、兵士たちの戦闘意欲を刺激し、士気を上げるために行う物。 背後でそれを見守るイストリアから見て、宰相の演説は三つの間違いを犯していました。 一つ目は戦友諸君と呼びかけたこと。 戦友というのは長年の戦を共にして、将兵の信頼関係が成り立ってこそ意味のある呼び方です。新兵や初めて指揮する部隊に向かっては『戦士諸君』と呼びかけるのが慣例でした。それをいきなり馴れ馴れしく戦友などと呼ばれては、兵士たちも興醒めです。 そして二つ目。 総司令官は兵士にとって命を落とすかもしれない戦場へと送り出すために、己の正義を信じ、敵へと立ち向かう勇気や敵愾心を煽るものです。煽るまでは良かったのですが、最初から敵を過小評価し、この戦いが簡単に終わると印象付けたのは悪手でした。 そして最後は進軍速度。 進軍速度は三種に分かれており、一種は通常行軍で一日の踏破距離は二十キロ程度。二種は速行軍で三十キロ程度。そして三種というのは昼夜問わずの強行軍で、その距離は四十キロ以上とされています。それを武器や防具、当面の食料やテント類など二十キロ近くある重さの装備を抱えて進むのです。 帝国の首都から辺境である大陸西方への入り口までは四百キロ近く。通常行軍なら二十日ほどで到達できるところを、必ずしも急ぐ理由がないにもかかわらず最速で到達することを
――リンゼン帝国 帝都セント・レグナス 皇帝廟謁見室――「皇帝陛下、軍勢は順調に終結しており、間もなく十万に達する見込みです」 イストリアは一切の感情を見せぬ表情のまま、無言でただ頷きました。「敵の兵力は?」 物言わぬイストリアに代わり、大臣が口を挟みます。「三万程度かと」 その報告を聞き、宰相と政務大臣を兼ねるアルベルト・ヨハン・ローゼンベルクの口元には冷たい笑みが浮かびました。「はん! その程度の兵力、我が十万の軍にかかれば塵も残さず蹴散らせようぞ!」 既に勝ったと確信して上機嫌に息巻く大臣とは対照的に、イストリアの表情は晴れません。「ローゼンベルク、そのように鷹揚に構えていても良いのか。我が軍の兵士の練度はどうなのだ」「ご心配には及びませぬとも。我が軍の誇る将軍たちがしっかりと鍛えております。陛下はその|至尊《しそん》の座にて戦勝の報告をお待ちくださればよいのです」「しかしハワード王国の兵士たちは精鋭揃いと聞く。対して我が軍は新兵が大半だと報告を受けているぞ」「将には歴戦の強者が揃っております。彼らに任せておけばすぐに立派な兵士に育て上げてくれるでしょう。そうなれば三万ごとき少数兵力、容易く打ち破ることが出来ましょう」 いくら言ってもすでに勝った気でいる大臣の笑みは崩れません。 イストリアは小さく息を吐くと、そのまま静かに目を伏せてしまいました。(お兄様たちが生きていらしたら……) 若くしてこの世を去ってしまった二人の兄。彼らはイストリアの事をとても可愛がってくれた心優しい兄でした。その一方でとても勇猛な将としても知られており、皇帝の器として帝国民の誰もが認める、妹であるイストリアから見ても立派な人物でした。(それに引き換え、わたしときたら……ただ玉座に座っているだけ) 大臣が進めるまま始まりつつある今回の戦争を、自分の不甲斐なさが原因であると自責の念に沈んでいました。 生前、兄達が言っていた言葉が脳裏に蘇
東の帝国で軍備が増強される中、西の王国では今日も変わらず民が平和な生活を送っています。 しかし王城の一室では重臣と将軍たちが集められ、緊急会議が開かれていました。 ――ハワード王国、謁見室 緊急軍議――「国王陛下、敵の兵力、十万は下らないとのこと!」 物見の報告役である兵士が王の眼前で、片膝をつきながら悲痛な顔で報告します。 対する王国の陸軍兵力は三万。海軍に一万。「十万だと! とてもじゃないが勝ち目がない!」 慎重論派の多い重臣たちの顔は青ざめ、既に悲観的になっています。「籠城戦だ! 我が国の防壁は暑く、食料も豊富だ。半年は持ちこたえられる!」「民を全員城に入れられるものか! しかも半年持ちこたえたからと言って援軍もないのだぞ!」「いや、ここは王城を一度捨てて、ゲリラ戦法に移るべきだ! 各地で各個撃破すればよい!」「バカ者! それこそ民はどうなる! 下等臣民へと落とされ、鉱山送りだぞ!」 今までにも帝国は反逆者や重犯罪人などを下等臣民として、鉱山や港湾労働などで苛烈な扱いをしてきたのは周知の事実です。 大陸の西方は、帝国本土と人体でいう腰のような陸地で繋がっており、三方は波の高い外洋に囲まれています。荒海を越えられる船を持たない民にとって逃げ道はありません。「ならば徹底抗戦するまでだ! 帝国の腑抜けた兵士どもに、鍛え上げられた我が国の強さを見せつけてやるがいい!」 最も好戦的な大将軍が声を大にして主張しましたが、それに賛同する声はありません。 降伏、籠城、放城、抗戦。作戦は異論噴出し、一向にまとまる気配がありません。突然振りかかった未曽有の国難に対し、誰もが動揺を隠せない様子。 その中でひとり、カイゼル王だけは腕を組み、目を閉じたまま微動だにしませんでした。横に控えるアウグストも、父の顔色をうかがいながらも取り乱した様子はありません。 やがてカイゼル王がその重い口を開きました。「決して民は見捨てない。帝国に膝を屈することもしない。それだけは譲れん」 静かに、落ち着いた口調で
昔々、ある大陸にリンゼン帝国という国がありました。 かつては隆盛を誇ったその国も、皇帝の交代に伴う内乱で国が傾き、周囲への影響力を失っていきました。 そして世は乱れ、相次ぐ戦火によって経済が止まり、田畑は焼かれ、食料が不足した民草は塗炭の苦しみを味わうことに。 そんな中、農民から身を起こし、リンゼン帝国の男爵という地位まで駆け上がったカイゼル・ハワードという人物が立ち上がったのです。 彼は義勇軍を率いて反旗を翻し、西の海に面した一都市を占領してハワード王国を築きました。 『炎の剣士』と呼ばれたカイゼルの強さは他を圧倒し、瞬く間に帝国の西方三分の一を掌握。 彼の善政によって経済や食糧生産は回復し、民心は安定。 かくして西方の民は安寧を取り戻し、人々は彼を『太陽の剣王』と呼んで讃えることになったのです。 リンゼン帝国にとっては大打撃でしたが、力の衰えた帝国ではハワード王国を攻めることも出来ず、にらみ合いを続けたまま十年の歳月が過ぎていきました。 * * * 城の中庭、カイゼルは剣の稽古をつけてあげていました。 「せいやぁーー!」 裂帛の気合と共に、正面から剣を振り下ろす小さな剣士。「そんな攻撃は当たらないぞ! アウグスト!」 さすがはかつての『炎の剣士』、体を捻るだけで難なくそれをかわします。しかし、アウグストと呼ばれた少年も負けてはいません。「はぁっ!」 振り下ろした剣が地面へつく前に素早く跳ね上げ、そのまま横薙ぎの一閃。「ぬっ」 その攻撃にはカイゼルの体捌きも間に合わず、剣を使って受け止めるしかありません。「やるな! だが甘い!」 受け止めた剣をくるりと回すと、少年の持つ剣をからめとり、そのまま弾き飛ばしてしまいました。 十メートルほど離れた場所に突き刺さった自分の剣を見て、少年は膝をついてしまいます。その顔には無念の色が。 「まいりました……」 意気消沈して